• 【代表 正岡眞二】
    一般社団法人日本ソーイング技術研究協会、外国人技能評価試験会場にて、
    シックシャット(微弱酸性次亜塩素酸水溶液)によるコロナウイルス対策の消毒を実施
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代表  正岡眞二  元中日ドラゴンズ

今治南高校では遊撃手、
一番打者として1967年夏の甲子園予選北四国大会決勝に進出。

玉井信博投手を主戦とする松山商を降し甲子園に出場。

準々決勝に進むが、野上俊夫投手を擁する市和歌山商に延長10回の熱戦の末3-4xで敗れた。

高校球界ナンバーワンの遊撃手と評価され、1967年のドラフト4位で中日ドラゴンズに入団。

プロ入り6年目の1973年に一軍に定着、華麗な守備で徐々に出場機会を増やすが、広瀬宰とのレギュラー遊撃手争いが続く。1976年に広瀬の移籍により遊撃手の定位置を得る。

1979年には打力に優れた宇野勝にポジションを奪われた。しかし『燃えよドラゴンズ!』にも歌われた抜群の守備力で、スーパーサブとして勝ち試合の終盤には必ずといっていいほど出場。

二塁手、三塁手も器用にこなし、チームに欠かせない存在であった。1983年のシーズン終了後に現役を退く予定だったが、翌シーズンから指揮を執る山内一弘にその能力を惜しまれ、引退を1年遅らされたという。

『燃えよドラゴンズ!V2』(1975年)には「ミヤーン打法」(前かがみになってバットを寝かせて構えるクラウチングスタイル)と歌われている。
ミヤーンとは後に横浜大洋ホエールズに所属するフェリックス・ミヤーンのことである。

引退後は中日の守備コーチや1996年から1997年まで二軍監督を務めた。 その後は同球団のスカウトを務め、森岡良介や又吉克樹などを担当した。2014年末に退団。日本福祉大学コーチを務める。